音曲祝祭行 - 大木雄高
『明日という字は明るい日と書く』のですか?
先月の四月四日に、神奈川県相模原にある臨済宗常福寺の恒例行事「死を想え=メメント・モリ」という催しが行われた。午後一時から三人の講演者による話が始まって、最後のパネルディスカッションが終わるのが五時半頃。一時間の休憩を挟んで音楽ライブが始まるという長い一日の催しは、終演後、客と一体になって酒を飲み弁当を食してやっと終えた。企画制作と人選の手伝いを毎年六・七年続けているが、因みに今年の出演者は柳田邦男と窪島誠一郎、筒井ともみの三名の講演者、ミュージシャンは坂田明と世界的に活動した後今は殆ど日本に暮らすジム・オルークだった。又もや今年も腹蔵のない剥き出しの中味が真摯に語られて、音楽は鳥やたまに通る電車の音と共演しつつコスモス・サウンドで締め括った。
2005年のやはり四月の第一土曜日に行った「死を想え=メメント・モリ」の講演者の一人は映画監督の原一男だった。下北沢の映画館「シネマアートン下北沢」の顧問を引き受けて二年目の春だった。小さな映画館の宿命で旧作特集や若手の実験映画特集など、企画ものの連続で凌いでいくしかなかったが、映画館ならば新作をロードショウしたいのは当たり前だった。その時期も、神代辰巳特集や80年代傑作選、70年代青春の光と影、豊田四郎特集、舛田利雄特集などの企画上映がラインナップされていた。70年代初頭からドキュメンタリー映画を撮り続けていた原一男が、十年振りに撮った映画は劇映画だった。その新作『またの日の知華』は一月十五日から新宿のシネマスクエアとうきゅうでロードショウ封切りが決まっていた。そこで二月二十六日からムーブオーバー封切り上映を決めた。席数の少ない映画館は新作上映は制作会社や配給会社に嫌われるが原一男は嫌わなかった。第一回封切りに対して後発の二次ではあるが封切り上映なのだ。四人の女優に知華という一役を演じさせて、監督自身の70年代を抽出していこうとしたのだが、作品は空回りしていて褒められたものではなかったし、客も入らなかったのはとても残念な事ではあった。ところが彼のその70年代原点となる作品『さよならCP』(72)と『極私的エロス恋歌1974』(74)を同時上映するにあたって、二月六日、たまたまその二本を上映していたお茶の水下70年代風上映館スペースNeoで観たときは衝撃だった。
ビデオでかつて観た事はあったが別作品のようだった。元々ブラウン管からは遠く離れている作品だが、映画上演館の設えも粗末でそれ故より直接視聴覚に入ってきたのと、山形ドキュメンタリー映画祭と提携している上映スタッフと空間が同時代感をより強度に出していたのかも知れない。脳性小児麻痺(CP)者の団体「青い芝」と五体を合わせて生活し、“保護するな、人前にさらせ”という身体の階級性をカメラで撮らえた『さよならCP』は、健常者としての俺の忍耐を問うた。下北沢の街を怒鳴っては走り廻っていたクリーニング屋の◯◯ちゃん、駅前で掃いてばかりいたお掃除おじさん、暗くなれば裏路地に立ってノーパンのスカートをめくっていた老女など身近だった精神障害者の野放しの光景を思い出した。又、梅ヶ丘にあった都立光明養護学校で介助員をやっていた写真学校出の原一男が、そこで身障者の写真撮影をやっていたのは知っているが、70年代末から80年代にかけて下北沢の「レディ・ジェーン」に、そこの生徒が車椅子で遠征し始めたのだった。最初介助員に連れられて来たジャズ好きのCP者が、一階でしかも入れてくれることに味をしめて四、五人を引き連れて来るようになった。コルトレーンをリクエストしてストローで水割りを飲んで帰る事が、何年も繰り返しあったが、いつの頃からかピタッと来なくなった。
一般の健常客にこれで帰られなくて済むと、
俺は脳天の何処かでチラッと思ったはずだ。
上映を終えた二週間後の四月二日、常福寺の本堂で原一男は喋っていた。かつて中一の息子を殴って投身自殺された体験を持つ彼は熊井啓監督の『深い川』(95)でインドのベナレスでロケをしていて、牛と目が合って何故か息子を思い出したと言う。NHKの番組『世界わが心の旅』に出演の話があった時、牛と目が合った場所にもう一度行きたくて、轟々と流れるガンジス川の辺を般若心経を唱えながら歩くと息子の気配がしたと。「そして息子が死ぬ瞬間に何を考えて、私に何を思ったのか解き明かせない謎に近づくことを、映画を作る中でやりたい」と。
――企画者の俺の眉間を襲う
ブーメランのように。

2009年05月07日 11:24| 個別ページ
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