音曲祝祭行 - 大木雄高
満月を盃にくだきて、暫し、酔ひて勢えよ
昨年暮れの東京新聞に、元名古屋大学学長だった平野真一という人のインタビュウ記事が載っていて、「閉塞感を打ち破る心の教育が必要」を説いていた。そして、中国の故事成語の、水を飲むときは井戸を掘った人のことを思えという<飲水思源>という言葉を使っていた。ノーベル賞受賞者の「益川敏英さん、小林誠さんも受賞講演で、二人を育てた故坂田昌一教授を思い、『坂田さんに代わってもらう』とのべていた」と。何処かで聞いたことわざだなと記憶を引っ張り出すと、七〇年代に周恩来首相が訪中した田中角栄首相を迎えた時に使った修辞だった。この人は日中国交回復の井戸を掘ったのは俺だと、彼岸でも思っているに違いない。平野が言う<飲水思源>は、映画演劇音楽踊りの世界でも文学美術の世界でも、サッカーや野球などの世界では特に一般通用している倫理だと思っている。魯迅の通った東北大学の中国留学生を迎える寮は「思源寮」と言うらしいが、学者や世を牽引する経済人や官僚、政治家には特別のことらしい。戦後<渇して盜泉の水を飲んだ>金満国家は、<魚心あれば水心あり>の土建国家を作り、汚職で臭い飯を食った食後には、禊は済んだとばかり<明鏡止水>の心境になって復権する、おかしな世界の生き物に領導されているのだ。失業立国、非福祉立国、自殺立国とこれら閉塞感を生んでいる心の中が教育でなおるのだろうか。
卯年の年明けも
新玉の春の装いは無い。
「ふるさと」の青森に<木鶏>を尋ねる
先月末大相撲が横綱白鵬の優勝で終わったが、63連勝を続けていたその白鵬が二日目に負けた。双葉山の69連勝記録を前の黒星だったが、新聞に「イマダモッケイタリエズ」の文句が舞った。昭和14年に70連勝をなし得なかった双葉山が、師の漢学者に発した言葉が「いまだ木鶏足りえず」と言う荘子の言葉だったそうだ。昔、中国で王の命令を受けた軍鶏の名人が調教をした。十日経って「もう戦えるか?」と王が尋ねると「まだです。むやみに威張っているだけです」。又十日経って尋ねると「まだ他の軍鶏の声や姿に気が立っています」。又十日後「いえ、相手を睨んで見下しています」そして十日後王が尋ねた。「やっとです。他の軍鶏が声を上げても、木彫りの鶏のようにまるで動じません。徳が具わっています」と。尖閣諸島の衝突事件や機密ヴィデオ流出事件におたおたしている政府閣僚を見るにつけお笑い草のまるで<籠鶏>だと思えば、では数日前にNHKの鳴り物入りのドラマ『坂の上の雲』で、日清戦争開戦で清国に攻め入る主人公の秋山真之が艦上で腕ぶして武者震いする場面がたまたまあったが、なんの鶏のつもりだろうか? 故事を生み日本の偉い漢学者を生んだ“父の国”中国を攻め落としているのだ。日清は日露に続き太平洋戦争の大惨事に至った訳だから、司馬遼太郎史観うんぬんではない。歴史を問うのだったら、一日ズレて放映していた全く同じ時代を描いた映画『荷車の歌』(59 山本薩夫監督)に学んだ方がどれほどか良い。<マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや>。
「言うなかれ、君よ、別れを」と言って、人は逝くのか
2006年3月2日、演出家で作家だった久世光彦が心不全で死んだ。リリー・フランキー原作『東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン』の特別ドラマの演出をする予定を前にして逝った。私事を言えば、その年明けはバンドネオン奏者の小川紀美代のCD『タンゴロイド』の制作とライブ・ツアー、映画『世界はときどき美しい』(御法川修監督)のサウンドトラック版CDの制作、映画館「シネマアートン下北沢」の脚本家・荒井晴彦特集に続く初笑い喜劇特集、勿論前号で触れた立ち上げたばかりの下北沢商業者協議会の行動方針決定とマスコミ対応が、下北沢四商店会二町会の会長名で何と開発推進の要望書を区長に提出するという暴挙の中で急がれ、「レディ・ジェーン」の継続こそ力のライブと共に怒濤のように押し寄せて来た中での突然の訃報だった。西麻布から乗ったタクシーで知った。1月には同い年のピアニスト・本田竹広と世話になった音響技師の川崎克己を失っていた。二月には靴デザイナーの高田喜佐も胆管癌で逝ってしまった。
<ヴァーチカル・ドラム>にシモキタが一ミリ動いた
今日9月27日、プロデュースしたCD&DVDのカップリング新譜アルバム『オーチ・チョールヌィエ(黒い瞳)/マサラ』の発売記念ライブ・ツアーの第二弾を終えた。フラメンコ・ギターとアラビック・ヴァイオリンとタブラの三人からなる音楽は、どこにも属さずエッセンスを融合させているので、インドのマサラ料理やマサラ映画よろしくユニット名を「マサラ」としている訳だが、俺にとっては高度なテクニックもしかり昔から聴き応え上々なのだ。それがあってDVDは青山真治監督に撮ってもらった。五日振りに下北沢の自宅に戻ると、よしもとばななの書いた新作「もしもし下北沢」が、著者謹呈として毎日新聞社から送られて来ていた。「シモキタヴォイス2010」を8月29日に終えて一ヶ月弱、なかなかタイミングがよろしかった。網の目を縫うように迎えた「シモキタヴォイス」は、
行政による再開発の波に
飲まれようとしている下北沢の街作りは、
下北沢人の手で考えよう
と言う文化イベントで、四年前に立ち上げて第四回目だった。
あの頃『アムトラックブルース』が流れていたよ
8月30日の昼過ぎ、居間のソファーで目が覚めた。ひっくり返って寝たのは確かみたいだが、何時に帰ったか、前の晩は鍵も持ってなかったからどうやって家に入ったのか覚えが無い。何軒も下北沢の飲み屋を回って、連れに二人掛かりでタクシーに押し込まれたのは憶えている。一分で我が家に着いては運転手の労働者に申し訳ないではないか。余計なことをするんじゃない。黒田征太郎の描いた絵を整理した手が絵の具だらけだったのに綺麗に落ちている。ということはシャワーも浴びたと言うことだ???
「無悟」と「無垢」の違いがわからない
半年前のことになるが、今年の二月七日の朝刊に「日本棋院は、6日に終了した囲碁の2010年度棋士採用試験女流本戦で、小学五年生の藤沢里菜さんが一位となって4月1日付での段位取得を決め、史上最年少の11歳6ヶ月でプロ棋士になると発表した。藤沢さんは故藤沢秀行名誉棋聖の孫で、父は藤沢一就八段」とあった。因縁生起や輪廻転生、因果応報や血脈相乗といった言葉がフラッシュのように浮かび、これからの長い人生、紅蓮の業火の中に一人の少女は吸い込まれていくのかと、震撼を覚えた。云わんや「小学校のうちにプロになりたかったのでうれしい」と当人の弁においてをや。
魑魅魍魎を哲学すると
5月31日の夜中、当稿を書かねばと思い帰宅したが、その気にならずビデオ映画を観ようとテレビの前のマッサージ椅子に凭れた。その椅子は俺には無用で家人の為の椅子だった。いつもはむしろ毛嫌いするように座らなかったが、酔っぱらいの仕業だった。朝十時頃目が覚めたので起き上がろうとすると、腰に激しく電流が走った。ぎっくり腰だった。椅子の凹凸や突起が作用して寝ている間にぎっくり腰になったらしい。もしかして軽視された「人間椅子」の残酷愛の復讐だったのか、いずれにしてもマッサージ椅子でぎっくり腰とはおぞましい。いつかこっそり捨てようにも、一人で持てた重さではない。
FLANEUR(ブラブラ歩き)は止まらない
先月東京ヴォードヴィルショウの公演を観に、新宿・紀伊国屋ホールに行って来た。出し物は、作・演出の中島淳彦が数年前に劇団道学先生の為に書き下ろした『無頼の女房』という作品だった。覚醒剤と睡眠薬と酒の日々を繰り返す坂口安吾の作家生活を、妻の三千代夫人とその周辺の人々を絡めて描いている。錯乱と破天荒振りは舞台だから多少大仰になるが、太宰治や檀一雄等を登場させて、自意識過剰人間の激しい妬み嫉みの応酬合戦は退屈させなかった。中島淳彦は本の素材のヒントを『クラクラ日記』から多く貰ったといっているが、安吾の死後、銀座に文壇バー「クラクラ」を出した三千代夫人が、作家たちとの交流を綴ったエッセイが『クラクラ日記』だった。
チンドン音楽の出番ですよ
二〇〇六年に、既に世田谷区は下北沢の再開発及び道路建設の事業認可を強行決定していて、法的にはいつでも工事に着手出来る体制になっている。それに対して、開発の見直しと住みやすい文化の街・下北沢の街づくりを提案して、住民や商業者で立ち上げた「シモキタヴォイス」という八月のイベントがある。今年で四回目を迎えるが、二〇〇八年から参加してくれて、企画にも意見を出してくれる平松昭子という下北沢住人のイラストレーターがいる。週刊文春の林真理子のエッセイ「夜更けのなわとび」のさし絵でおなじみだが、連載は二〇〇〇回に届こうかとしている。日舞を嗜み着物好きの楚々とした婦人であるが、「黒い夫婦」や「黒い親子」というオリジナル漫画があるように、毒舌は凄まじく、その破天荒振りとのアンバランスのバランスが愛らしさを醸し出している人とも言える。
小判で面張る今様下北沢
今日3月1日の新聞の一面に、「渋谷、新宿などで大勢を誇った老舗家電量販店の『さくらや』が閉店した。」とあった。その前日の2月28日、「レディ・ジェーン」の音響ミキサーが故障して、修理に出しようが無い。昔だったらその店の契約サービスマンが飛んで来た。出しようが無い訳ではないが、購入した価格ぐらい修理代を取られる。そしたら新品を買ってしまうだろう。量販店の生命線は低価格にあって、メーカーと一連の〈低価格戦争〉に負けたのだ。安い物を買わされて、すぐ故障して、捨てれば産廃が山をなす。尋常な営みだろうか?
「茶々&ちび〜三角橋の猫の歌」流れる街をどうしようと?
「何がエコだ。自然に対置して人間は何も出来ないし、何もなし得ない、無力であ る。そこは死の世界だ」と、写真家の白川義員が登山家の野口健に語りかけている。 テレビの画面には、戦慄を覚えるヒマラヤの山々が神のように居座っていて、怖じけ ずく者にどうだ来いよと言っている。ヒマラヤ一帯を体験済みの野口健が未登頂だと いう、エベレストの東壁が朝日を浴びて真っ赤に染まっている。東壁は気流の関係で いつ墜落するか分からない魔の空域らしいが、二人が乗った空撮機はそこへ近ずきな がら、「この鮮烈な風景は原初の風景です」と白川義員は言う。圧倒されながら北斎 の赤富士の絵が浮かんだ。
日本人の笑顔と風のインプロピゼーション
11月の末、テレビの報道ステーションで、アラーキーこと荒木経惟が撮り続けている「日本人の顔」の特集をやっていた。大阪、福岡、鹿児島、石川、青森、佐賀と数年前から回って来て、今年は7月3日〜5日に広島だった。7年間続く「日本人の顔プロジェクト」は当の荒木経惟に言わせると、「人間が一番表現しているのが顔」でつまり「顔が一番裸だ」となる。特に今回は“もっと生きる”ことが良いねえと語っていた。勿論被爆都市広島の被爆者本人またはその子女が懸命に生きている「顔」のことを言っている。当然1945年8月6日は今だ続いているのだ。広島出身の俺は或る日のことを思い出した。
シューベルトの「あすなろ」を歌えと言われてみてもも
昨年の暮れの或る日、下北沢の我が家の狭い門扉のそばに立っていた檜葉の木を伐った。6メートル程に伸びて隣の家の窓をこすっていたのが気になっていた夫人が、「枝だけ伐れば良いじゃないか」と言う俺を制して、幹も枯れているからと根元からバッサリ伐ってしまった。男はこんな時いつも逡巡する。家を立てた時、彼女の実家から植樹した木で、約28年も共に住んでいたからだった。女は潔いね。生む能力を持った生物の本能なのか?檜葉の木は檜の一種であすなろとも言う。
「世界はときどき美しい」と思いたい。
10月27日、『SOUL RED 松田優作』という、生誕60年・没20年記念作品の最終試写に行って来た。「最初で最後の公式ドキュメンタリー映画」と銘打たれている通り、決して多くなかった彼の主演作品が宝物を扱うように丁重に取り上げられ、今まで公式には露見されなかった肉声インタビューや秘蔵映像とともに、松田優作と心でつながった映画人たちの証言で綴った一編だ。特に最後になった映画『ブラックレイン』の共演者だった俳優、アンディ・ガルシアをアメリカまで追いかけて取ったインタビューは、手に取るように実感が迫って来て泣けた。この御法川修の監督作品は新宿ピカデリー11月6日、他全国ロードショーは11月7日に封切りされる。
『雨が空から降れば』しょうがない不条理
北京から帰って一週間程経った2005年5月のある日、ビセンテ・アミーゴのコンサートに行った。ビセンテは今やもっとも著名なスペインのフラメンコ・ギタリストだが、彼が尊敬するという先輩ギタリストのパコ・デ・ルシアは、フラメンコ・ギター界に革命をもたらした同国の偉人で、ラリー・コリエルとジョン・マクローリンの『スーパーギター・トリオ』は、ジャズ界はおろか音楽世間の度肝を抜いた。その後ラリー・コリエルが抜けた後も、チック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエバー」のギタリスト、アル・デ・メオラと「スーパーギター・トリオ」は続いた。そんな流れを継承しようとしていたビセンテ・アミーゴの有能振りは、早くから聞こえていた。会場の渋谷東急文化村のオーチャードホールはほぼ満席で、そんな客席の期待を上回る天賦の才とパッションを放っていた。
『浅い眠り』の街下北沢にて候
現在下北沢で計画されている国交省、東京都、世田谷区による三位一体の都市計画、連続立体交差事業は、私企業の小田急電鉄の地下化工事の厖大な費用の殆ども、地下に眠る道路特定財源(ガソリン税、自動車税)で賄ってしまう奇妙な代物である。今は小田急線の工事以外、この評判の悪い計画は何一つ着工されず鳴りを潜めている。だが2002、3年に発表されて以降、地主や借地権者としての大家と借家人及びテナントとの間で、数多くの個別的な争いが生じている。それは道路計画や駅のバスロータリー広場に入っていなかろうが関係なく、街全体が地区計画や規制緩和に覆われ、機敏に足下を狙った大家や不動産屋が、個別ビル再開発や家賃を高騰化するために立ち退きを強制し始めたからだ。行政に踊らされた哀れな拝金主義者らが、自らの街を壊そうとしている。
『ラストワルツ』を踊り続けたいのだけれど
前号に続く。予定通り去る6月20日、北京に出掛けた。六年間続いていたイタリアンレストラン&バーが開発局から退去命令を受けたので、止むなく閉めざるを得なかった。昨年内もいつ通達がくるかといった不安の気配はあったのだから半年後なので諦めるしかなかった。何てったって恐い一党独裁人民政府に誰が逆らえようか。それでパーッと閉店パーティーをやろうということだった。ノースウエスト機が空港に着くと夜の十時半は廻っていた。迎えに来てくれたパートナーの藤崎森久の車で、市街の中心の工人体育場脇のホテルに着くと十一時半だった。車中で彼が言った。「昨日水道が止まりました。で今日は電話が止められました」と。「おいおい、強制ってったって契約は六月一杯生きてるだろう!?」と俺。北京オリンピックが終わるのを待って開店した工体の店に顔を出すと、初対面の泊義人シェフと日本への留学体験のある心強い女番頭の 朝が片付けで居残っていて一瞬ホッとしたが、明日のファイナル・ナイトは心配そうだった。電気が止められたらろうそくで通夜パーティーでも始めるのか? とはいえ、北京で数日落ち着くためには、こんな時間はまず一杯だ。最近良いバー出来たというので南三里屯の「GLEN」というバーに行く。町場でこれ程本格的で整ったバーは北京で始めてじゃないのだろうか。と思わせた。銀座出身の日本の26歳の若者が黒服で店長バーテンダーをやっている。聞けば中国語をまったく喋れないと言う。頼もしくなってダイキリ他数杯を飲る。日本の若いバーテンダーが飯田君に続けば良いのに。
「上海帰りのリル」はピカレスクの匂い
遅れていた当音曲祝祭行の執筆のために、やや早起きした6月1日の朝朝刊を拡げると”中国で民主化運動が武力弾圧された1989年の天安門事件から、今月4日で20年を迎える“とあった。改革派の胡耀邦、元総書紀の死で火が付いた民主化運動は百万人規模に膨らんだが、トウ小平主席は軍隊を出動させて鎮圧した。例によって死者の数の実体は不明だが、指揮した学生リーダーたちは海外へと亡命したり欧米との外交取り引で釈放されたりしたが、下級労働者たちの多くは、武装警察のビデオテープを破棄した程度で死刑や無期懲役判決を受けた、世界を震撼させた事件だった。八九年は秋にベルリンの壁崩壊や東欧の共産主義瓦解を見た苛烈な年だったことも、一瞬で甦ってきたが、昨晩、北京に電話を入れて、
北京行きの日程を整えた
ばっかりのことだったので、
何じゃらほいの気持ちだった。
『明日という字は明るい日と書く』のですか?
先月の四月四日に、神奈川県相模原にある臨済宗常福寺の恒例行事「死を想え=メメント・モリ」という催しが行われた。午後一時から三人の講演者による話が始まって、最後のパネルディスカッションが終わるのが五時半頃。一時間の休憩を挟んで音楽ライブが始まるという長い一日の催しは、終演後、客と一体になって酒を飲み弁当を食してやっと終えた。企画制作と人選の手伝いを毎年六・七年続けているが、因みに今年の出演者は柳田邦男と窪島誠一郎、筒井ともみの三名の講演者、ミュージシャンは坂田明と世界的に活動した後今は殆ど日本に暮らすジム・オルークだった。又もや今年も腹蔵のない剥き出しの中味が真摯に語られて、音楽は鳥やたまに通る電車の音と共演しつつコスモス・サウンドで締め括った。

